増上寺は徳川家の菩提寺となった。
家康の遺言で
法会は増上寺と遺言する。お江、秀忠も増上寺へ埋葬される。
家康から秀忠、家光の代まで仕えた南海坊天海は江戸城の裏鬼門の守りとして増上寺をその後の徳川家の菩提寺として隆盛させる。
現在の宝塔は昭和39年東京オリンピックの時プリンスホテルがある場所から移設されたものである。
6人の将軍と皇女和宮、将軍の母、側室の合碑で8基の宝塔がある。
回向院は明暦の大火でなくなった江戸の民を葬ったのが始まり。
3日間江戸の6割から9割が焼失10万人の使者が出た。大火のよくひは
大雪で江戸は灼熱地獄から鑑地獄へと突き進み江戸の民は着の身着のままで使者を弔えず川へ流していた。保科正之は将軍家綱と死者を集めて弔った。それが回向院の始まりである。