2021年1月よりコロナ禍で活動ができないので全国名城巡りを投稿します。

 

埼玉の城(最後です)

 

6、鉢形城(埼玉県秩父市寄居町) 天守はなし。

登城 2013年(1回)

歴史小説の好きな人ならばこの城を知らぬ人はいない

多くの戦国大名が絡む戦がここで起きて都度登場する城である。

 

太田道灌の時代 山内上杉顕定が長尾家の家督相続で嫡男の景春を認めず弟に家督が継承されてしまう。それを機に景春はこの地に鉢形城を築城し山内顕定と争っていくことになる。 

 

1478年(文明10年) 太田道灌が鉢形城を攻め、ようやく上杉顕定が入城した。その後扇谷上杉家、北条、武田などとの長年にわたる抗争となっていく。

 

天正10年1582年の本能寺の変後の神流川の戦いでは、甥で当主の氏直を補佐し滝川一益を壊走させている。江戸時代には代官が入城し統治している。

 

 

 

1546年 北条氏3代北条氏康が河越夜戦に勝利して北条氏が武蔵国における覇権を確立した。以後、鉢形城は北条氏の北関東支配の拠点となった。

 

その後も戦略上の重要性から、各地の戦国大名の攻防の場となっている。

 

鉢形城には悲しい物語がある。

 

この地区の藤田家は鎌倉武士で250年も藤田郷を守ってきた名家であった。

 

当主は藤田康邦であったが北条は藤田家を臣従させるため4男の氏邦10歳を婿養子に送り込み藤田康邦の娘の大福(おふく)御前と結婚させます。氏邦は藤田姓を名乗り家督を継ぎました。二人が20歳になった時は3人の男子がいて長男は早世・次男は出家・3男が後継者になりました。父康邦は死去すると北条は戦いの最前線となる鉢形城の拡張工事を完成させ氏邦・大福はここへ入城します。氏邦は長男が死去すると兄の次男を養子に迎え姓も北条へ戻し鉢形城へと移り藤田家義弟を殺害し北条として権力を行使した。乗っ取りです。

 

そのころ秀吉が小田原を攻め鉢形城は前田・上杉・真田・本多に攻められ氏邦は大福や女性たちを逃がし開城しました。戦に敗れ最終的に氏邦は前田家預かりとなった。

 

大福は無事に脱出し剃髪し、「宗栄尼(そうえいに)」と名乗ったという。(錦絵)

 

大福は父母の墓前にうずくまり、過ぎた日を手すり寄せるのを常とした。「お先に参ります」氏邦に挨拶をして3男光福丸の幻想を追いながら仏前でのどを切って自刃した。享年533男幸福丸は20歳を迎えたが翌年なくなっている。毒殺と伝えられている。大福にとって悲劇的で無念の一生であった。

 

(「著書大福御前」 「福田登女子著」「さきたま出版会」)添付 

 

一方大福には別の説もある。鉢形城を脱出したが山賊に襲われ全て奪われ奥州に奴婢として売られてしまう。秩父の商人に発見された大福はかろうじて助け出され正龍寺へ戻り氏邦の元へは行かず戦いでなくなった者の菩提を弔いことにしました。以後は同じである。「著書戦国を生きた姫君たち」「火坂雅志著」「角川文庫」にも少々書かれている。

 

 

 

鉢形城は広大な敷地を有する城であり多くの名のある武将の戦場となりましたがその中に大福(おふく)御前の悲しい物語のある城でもあるのです。

 

埼玉の城
2021年1月8日(金)

5、寿能城(岩付城の出城)登城2014年9月

知名度の低い小さな城だが旧大宮市の住人としてはぜひ紹介したい。

1560年、北条方におちた川越城に対抗し、旧大宮地区に寿能城、伊達城(現・大和田陣屋跡)が築城された。寿能城主は犬使いで有名な岩槻城主太田資正の四男、潮田出羽守資忠(うしおだ でわのかみ すけただ・姓は母方)が、伊達城主は太田家家老、伊達与兵衛房実がそれぞれ治めた。寿能城の地区は、現在の氷川神社

そばの大宮北中学校~ひょうたん池手前までの範囲が寿能城であった。
 北面、南面は谷、東面は現・川口まで続いたという大きな"見沼"(今は見沼代用水、芝川がある低地)に面し、西面には堀を掘ったらしい。見沼を隔てた台地に伊達城があった。さらに南には、中丸城(南中丸)、松野城(御蔵)を建て北条方に備えた。
 1562年、北条方は、圧迫を強め、太田氏ゆかりの館を焼き討ちし、氷川神社も兵火で焼けた。1564年、資正が、宇都宮に出かけている最中に、長男、氏資(うじすけ)が北条方と組み、資正を岩付城から追放、寿能城も、北条方の支配下に入った。
 潮田氏の領地は浦和~桶川にいたる広さであった。人物としては、氷川神社に土地を寄進したり、大宮の五穀豊穣のため城内に稲荷を祭り当地の守護神とするなど、信心深い人物だった。(現在は、市役所横に移設されている。)
 1590年、資忠は、秀吉の小田原攻めに対抗するために、一族・家来衆と北条の小田原城に入城する。しかし、石田三成の軍勢により、小田原城四ッ門蓮沼で、息子・資勝とともに潮田勢37名が討死した。
 同年、秀吉軍の家康配下の浅野氏の軍勢が北上、北条方軍勢と合戦になった。
 寿能城は当時の他の戦国の城のように、村民の避難所となり、多くの大宮村民が篭城、急ぎ戻ってきた家老、北沢宮内、加藤大学の奮戦も空しく、寿能城はあえなく、主君の死と同年に落城、二人の家老は氷川大門に蟄居にいたった。主君の妻と幼少の息子・資政は助け出され常陸に逃れたが、家来衆や、その妻子、名前が残っているのは能姫、侍女のお漣(れん)など、かなり多くの人々が、見沼に身を投げた。秀吉方の軍勢は市域で、戦場の他聞にもれず暴行・略奪行為を行なったようで、軍勢の乱暴狼藉を禁ずることと、逃げていった農民の帰還を命ずる秀吉禁制()が残っている。
 難攻不落の岩槻城も、422日落城、家老・伊達与兵衛房実は、その地で降参、退散した。房実は、家康の時代になって、召し抱えられ、伊達城の地域に陣屋を置いて大和田を治めた。同じく家老、加藤大学は、後に氷川神社に仕える家となった。他の家老、北沢宮内ら多くの武将は帰農してゆき、大宮町の成立に尽力していった。家康の時代になって、領主が寿能城付近の開発を命じられた、ということもあり、城の形は残らなくなっていった。旧大宮はこのように、戦国時代には戦場となって多くの人が亡くなっていた地であった。
 大正~昭和初期に、笛のうまい少女が蛍を追っていった所、侍女風の少女が現われ、案内されてお屋敷に入った所、少女の姿のお姫様が現われ、その地であった悲劇を告げ、「今は見沼の竜神の力で蛍の姿を借りて生きている。優しい村人に供養をして欲しい」と訴えた、という伝承があり、青い石の供養塔が資忠公の墓石の隣りに建てられ、戦前までは、命日の418日に供養祭が行われていた。見沼の蛍は戦前までは数多く見られ、天皇陛下まで献上されていたらしいが、今は見られない。
 しかし、戦時中に寿能城跡に高射砲陣地が造られたときに、多くの土塁などが削られ、供養塔等も失われた。現在は住宅地内の急な坂が当時をしのぶが、残っているのは出丸跡、潮田出羽守資忠公の墓所のみである。資忠公の墓地が立つ所は物見櫓跡であったらしいが今は寿能公園となっている。 見沼用水にかかる潮田橋、そこからひょうたん池までの間が出丸跡である。大手門は北中学校のあたりにあったというが今はない。

「飛田多恵子著」「著書武蔵の国Ⅱ」の中に「寿能城物語」がある。

埼玉の城
2021年1月8日(金)
4、岩付(岩槻)城(埼玉県さいたま市岩槻区)
(別名白鶴城)天守なし 
登城 2018年7月(3回目)
太田道灌は江戸城には平川、川越城には入間川、岩槻城には荒川と川を外堀にして築城した。(実際には川越城は父道真を手伝い、岩槻城は不明)
長禄元(1457)年、古河公方足利成氏に対抗する扇谷上杉持朝が太田道真・道灌父子に命じて築城させ、寛正五(1465)年に完成した。太田道灌は江戸城と岩槻城を往復する道として荒川上流の現在の埼玉県蓮田市を通過していた。蓮田市には「道灌手植え松」が残っている。(写真)
また旧大宮市大宮北高校のそばに「三貫清水緑地」がありその中に湧き水が2カ所ある。タカ狩りに来た道灌はその水で茶をたててくれたのに感謝し三貫(現在の50万円)を与えた。という言い伝えがある。
岩付城主の中でも有名だったのは太田資正で幼少の頃から犬好きで、領内の岩槻(岩付)城と武蔵松山城(比企郡吉野町)でそれぞれ50匹の犬を飼って行き来させたので、世の人は「資正はうつけだ」と噂していた。
ある時、松山城が「一揆」に囲まれ窮地に陥ったとき、岩槻へ助けを求めようにも敵に道を塞がれて使者も出せない。そこである夜、資正に教えられた通り、犬の首に密書を入れた小さな竹筒を結わえつけて放ったところ、犬は瞬く間に岩槻へ駆けつけた。
急を知った資正はすぐ救援に駆けつけたので、一揆どもは驚嘆し、以後、松山に一揆は起こらなくなった。
岩槻城も上杉、北条と主君を変えたが天正十八(1590)年の小田原の役では氏房は小田原城に入城し、岩槻城には城代・伊達与兵衛房実ら二千を置いたが、浅野長吉率いる二万の軍勢の前に激戦の末、降伏開城した。
家康の関東入封後は高力清長が二万石で入封、その後も江戸を守る要衝として青山忠俊や阿部正次等の譜代の幕臣クラスが入封した。大岡氏八代のときに廃藩置県で廃城となった。芳林寺には騎馬の太田道灌像が旧市役所跡地にも道灌像がある。街中には時の鐘がある。

 

埼玉の城

3、深谷城(城址公園)→渋沢栄一記念館

登城 2013年4月

 

1456年に上杉房顕が築いたものである。 1590年秀吉の小田原征伐で開城するまで、深谷上杉氏の居城であったが、家康の関東入部に伴い、松平康直1万石で入城した。 その後、家康の七男、兄の六男忠輝が継いだ。以後、慶長15年1610年に桜井松平氏の松平忠重が入封した。その後酒井忠勝1万石を領有して入封した。1627年に武蔵国川越へ移封となり、深谷藩は廃藩となり、1634年に廃城となった。 深谷城は太田道灌の時代に上杉と古河公方との戦いの場となりました。(添付)すぐ近くに五十子城(いかっこ)があります。 

城址は公園になっており城址の石碑のみ目に付く。 

深谷はかつて「赤レンガで栄えた街」でした。東京駅の煉瓦は深谷の煉瓦です。それゆえ深谷駅のも赤レンガで作られました。 

さらに深谷の話題は 

20212月からNHK大河ドラマ「青天を衝け」が始まることです。 渋沢栄一は深谷で生まれました。 

渋沢栄一記念館には4頭身の渋沢栄一像と最近できたアンドロイドがあり皆さんを待っています。(私も見ていません) 

動きます。話します。話す内容は 

「仁義道徳」と「生産殖利」つまり、「道徳」と「経済」とは、共に両立して進むべきものでございます。 にもかかわらず、多くの人は儲けに走り道徳心を忘れてしまう傾向にありますので、昔の偉人は、このことを人に教える際に、道徳を説き、お金儲けを戒めることに専念いたしました・・・・・・・ 

20212月末に深谷にNHK大河ドラマ館がオープンします。 

また渋沢栄一は、近代日本経済の基礎を作った王子製紙(設立当時は抄紙会社)の工場を眼下に見守ることができる飛鳥山に、邸を構えました。1879年(明治12)からは内外の賓客を招く公の場として、その後1901年(明治34)から亡くなる31年(昭和6)までは家族と過ごす日常の生活の場としても使用し、「曖依村荘(あいいそんそう)」とも呼ばれ、栄一もこの地をこよなく愛していました。それゆえここにも渋沢栄一記念館が建ちました。深谷にも王子にもぜひお出かけください。 

大河ドラマをお楽しみに!

 

埼玉の城

2、 川越城(埼玉県川越市)

   登城 2017年4月(2回目)

  1. 川越も江戸と同じ秩父一族が南下して河越氏を名乗ったのが武士の始まりでした。

    鎌倉時代には頼朝に味方し頼朝の命で娘を義経に嫁がせた。皮肉にもそれが仇となって河越氏は滅んだ。河越氏館跡は現在の本丸御殿とは少々離れた入間川沿いにあった。

    (河越氏館跡と書かれた木柱があったが最近石柱になっていた。)(河越太郎重頼1185年没)

    現在は偲べるものは残っていない。

    太田道灌と父の道真が築いた(1457年)川越城(別名初雁城)は現在の本丸御殿のそばにあった。(本丸御殿係官の説明)。

    長禄元年(1457年)、関東管領の扇谷上杉持朝が、古河公方足利成氏に対する防衛線として太田道真と道灌の父子に命じ、築城された。

    川越市役所前には太田道灌の銅像がある。太田道灌が川越城築城祝いで開いた宴の折に初雁が来て鳴いたことから道灌が「初雁城」と命名したとされる。

    城内にあった三芳野神社は童歌「通りゃんせ」の歌詞の発生の地といわれている。

    徳川の時代となり

    天正18年(1590年)、豊臣秀吉の転封命令により関東に入国(移封)した徳川家康は、譜代の家臣、酒井重忠を川越城に1万石をもって封じました。そこから歴代の家老の城になりました。 

    歴代藩主の中で、城に関して特筆すべきは、松平信綱(通称松平伊豆守)と、松平斉典(通称松平大和守 結城秀康の家系)であった。
    寛永161639年川越城主となった松平信綱は、近世城郭として完成しました。これにより、広大な城となりました。その広さは土塁と堀を除き、4万6千坪におよびます。
    松平斉典は、徳川家康の子、結城秀康の家系です。御三家(尾張、紀伊、水戸)に次ぐ格式の家柄です。石高も17万石で川越藩の最盛期の城主です。この斉典が、全16棟、1025坪の広大な本丸御殿を造営したのです。

    現存する本丸御殿は高知城と川越城本丸御殿のみ。城郭御殿としては二条城と掛川城だけという極めて貴重な遺構である。本丸御殿南側には富士見櫓跡、西方には中ノ門付近の堀跡が現存している。

    川越城が観光地観光地として高い評価を受けていることは、この本丸御殿に依存する面が大きい。

    近くに徳川3代のブレインであった南海坊天海が住職を務めた喜多院がありそこには江戸城西ノ丸から移された春日局の化粧の間や家光誕生の間がある。(重要文化財のため撮影禁止)

    川越は町全体に観光スポットがあり仙波東照宮、五百羅漢、蔵の街、時の鐘などがある。

 

 

埼玉の城 

2021年1月6日

忍城(埼玉県行田市)
登城 2019年11月(4度目)
秀吉の小田原攻めで三成の水攻めでも落城しなかった。映画「のぼうの城」で有名。小田原攻め後は松平10万石となる。

藩主成田家は藤原の血を引く名門で「馬上でのあいさつ」が許されていたがそれを知らない上杉 謙信が鶴ケ岡八幡宮での関東管領就任式にて「無礼」として馬上から引きずり降ろしセンスで滅多打ちする場面があった。忍城は北条と上杉に主君を変えながら生き抜いていた。秀吉の小田原北条攻めで支城攻めの石田三成25,000の兵が忍城500を攻めてくる。
 城主は小田原城籠城で留守。城代成田長親は城主の意に反し降伏ではなく戦いを選択する。地の利を生かした3人の家老が奮戦し三成は攻めきれず水攻めを選ぶ。
 28㎞に及ぶ大掛かりな堤に利根川と荒川から水を引く。折からの雨、民の長親への信望などで堤は破壊され水攻めは失敗に終る。小田原本城が降伏したので忍城の戦いは終結するが小田原攻め多くの支城は陥落したが最後まで陥落せず残ったのは忍城だけであった。成田家は会津蒲生家 預かりとなり福井城1万石を与えられた。

その後関東は家康の配下となり家康四男の松平定吉が10万石で入城する。城主と石高は多く変わるがその後も松平家から城主が入る。知恵伊豆松平信綱も川越藩主の前は3万石で忍藩主であった。

 埼玉県北部にこの様な歴史の1頁を飾る大舞台があったとは驚きです。石田堤は現在も残っている。天守ではあるが江戸城に天守がないことに気を使い「御3階櫓」と呼んでいた。映画「のぼうの城」で有名になりました。続百名城です。