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2019年2月10日ミニ講座のお知らせ.pdf
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 本日は「会津藩松平容保」を中心とした幕末会津のお話であります。

会津23万石松平家はほんのかりそめの恋から始まった。司馬遼太郎の「王城の護衛者」の書き出しである。2代目秀忠は大乳母の侍女との間に庶子保科正之をもうける。これが会津初代藩主であるが

保科家は7代で血流が途絶える。8代9代隆松平家から養子。この9代が松平容保である。

 

  

藩主 松平容保     家老 西郷頼母

高須藩は水戸藩から分かれていく。

家康ー水戸ー高須と家康の血を引く直系であり容保は江戸高須藩邸で生まれる。

後に会津藩の養子になる。

パワーポイントのアニ―メーションを使って

動画を造った。

会津初代藩主保科正之が造った家訓の第一条は「徳川1番 徳川のためになすべし」であった。

松平春嶽はこの言葉を持ち出して「京都守護職」就任を迫る。容保は断れず引き受ける。

鳥羽伏見の戦いで敗戦。慶喜は容保と忠敬と愛妾を連れて開陽丸で江戸へ逃亡する。

慶喜は江戸で恭順姿勢をとり容保戸忠敬を江戸追放とする。

容保は会津へと向かう。会津で恭順の組成をとり降伏上も提出するが新政府軍の世良を受け取らない。あくまでも会津討伐。ついに戦い始まってしまう。

容保が朝敵でない証 それは孝明天皇から賜った「御宸翰と御製」であった。

長州も薩摩もこのことは知るよしもなかった。

現在も銀行の金庫に眠っている。